昭和40年11月18日 月次祭



 私共が、信心を頂きます。お道の信心にご縁を頂き椛目にこうして縁を頂きまして、信心の稽古をさせて貰うて、どうでも一つ、神様にお喜び頂けれる様なおかげを頂きたい。それは、どうでも私共本当におかげを頂かなければいけん。一人が助かったために、千人も万人も言うなら助かる様になと仰る。そう言う様なおかげ。言うならば子供の代より孫の代、孫の代よりも又そのひ孫の代と言う様にです、そういうおかげの頂けれる元、そういうおかげの頂けれる基礎、そう言う物を私共は頂かなければいけないと思う。
 超特大と。超の付く様な一つおかげを頂かなければなりません。真ん中に何時もお供えされます御神酒は菊正宗と言う日本一のお酒であります。是は私共戦前昔酒屋で御座いましたから、菊正宗という名の酒の神様。言うなら、もう横綱、横綱とま一丁上にあるならま一丁その上の格のお酒であります。
 もうこれは菊正宗の、これは灘の酒ですけれどもね、もうその同じ兵庫県でも、菊正宗の倉庫でなからなければ、蔵でなからなければ、あの薫りは出ないと言われております。もう300年から立ちます倉庫があるそうで御座いますが、もう傾いとる。その両方からもう厚い厚いレンガでですね、こうつんばりをしてある。その酒屋の倉庫にだけしかない。
 いわゆる(?失菌)、ね。小さいその、酒のできれる菌がないと。その(?)のないと言われた。だからその、これは、造りかえなければなりません。どんなに古くなってもだから、つんばりをいれてでもその倉を保存してそれを造り倉にしてある訳です。それは貴方皆さんが、お月次祭度に頂かれる御神酒があれなんです。違うでしょうが。しかもその中の特級、超特級という酒がありますね。一級酒と特級酒。これは、超特級酒と言う様な超がついておる。
 その超が付く様な、映画なんかでも特別の普通の何倍の経費をかけた、映画なんかを超特作とこう言う風に申しますでしょうが。超が着く様なおかげを頂きたい。
 椛目に御神縁を頂いておる人達がです、頂こうと思うたら頂けれる。あげなおかげを頂いておる人というたらおかしいですけれどもですね、そういう、雰囲気とですそういう日々おかげの頂けれる御教えを私どもが頂いておると言う事。もし全国にお道の信者があってです、本当に超特級のおかげを頂きたい、真の信心が分かりたいと切実に願っておる人があって。
 もし椛目の事を知られたならばですそれは鹿児島の果てからであろうが北海道の果てからであろうが、道を求めておかげを頂かなければおられない程の物が椛目にはあると云う事を私は確信致します。皆さんもですねそういうま我田引水に皆さん聞こえなさるかも知れませんけれども。
 昨日、一昨日でしたか、竹内先生が久し振りにお参りをして見えてから、ゆっくりされまして、色々お話をさせて頂く中にです、その日、朝から晩に頂きます御理解を話させて頂きましたら、本当にこう云う様な御教えをです、こう云う様な、その、深遠な御教えというものをです、本当に道の信奉者では本気で信心を求めておるという人達に聞かせたら、どんなに喜ぶだろう。
 それを、求めて与えられない、言わばお水がです、渇きを覚えておる時に一杯の水を頂いた様に、元気づくだろうというてその言うておられます。先生自身がそうであった。もう生まれながらにしてお道の信心を頂かれ、ご承知の様なお母さんの熱心な御信心を頂いて、しかも教団の中では、竹内ありという程の、有名なご信者さんでもあり、学徳も受けられておられる。
 最高の学部に学んでおられます東大を出ておられますから。信心も教学の面においてもそれは、私共が知り得ない様な教学も身に付けておられます。教学的に一遍お話を頂きましたが、もうそれこそ水も漏らさん様な、お話を一時間に二時間位に渡ってお話をされました。ここの青年会で。
 あちらこちらに以前は講演にでもおいでておられました。その竹内先生がです、これだけではしかし何もならん、大した事ではない。現在のその道では、教団ではそれを教えてくれない。もしそういう、私共が求めておるものが、与えられる者があるならばです、全国行脚、いわゆる歩いて歩いてでも行脚して歩いてでも、そう言う教会があるならそういう先生がおられるならば、道を求めたいという願いを日頃持っておられた。
 たまたま、椛目の事を聞かれて、丁度私が、あちらがお見えになる時に3回留守に致しました。
 わざわざ伊万里からお見えになられて、もう大概3回も来てから留守なら、これは縁の無かったのじゃろうと止める所だったのでしょうけれども、やっぱり見えられた。
 4回目お合いさせて頂いてから、意気投合と申しましょうか、「はぁ先生それでした。日頃私共が求めて止まないのはそれでした。それを頂けれると言う事にです、歓喜ね、いわゆる喜びを感じられ、此処にご信心の教えを受けに見えるわけなんです。
 そういう訳で皆さんがです、いわゆるこの近くおかげを頂いておられて。もう、こう言うと椛目がですね、よかつのごと思うておる様ですけれどもね、皆さんはやっぱり本当にそこん所を唯、我田引水にです、椛目は素晴らしい椛目は素晴らしいと言うておるだけではなくてです、本当に素晴らしいその教えを自分のものにさせて頂いて、超の付く様なおかげを銘々が頂かせて貰うて、始めて椛目の信心が認められると云う事になるのではないでしょうか。ね。
 そういう、素晴らしい例えば信心、そういう素晴らしい御教えのなかにです、私共が浸っておったからと言って、おかげを頂く物ではありません、朝から晩迄お話を頂いておるからというておかげになるというのではありません。その信心を自分の物にしなければおかげにならんのです。
 その椛目にはです、超の付く様なおかげの頂けれる、物があると。それを自分の物にさせて頂こうという私は意気込みがです、お互いの上にもう一段、二段も一つ、心の中に( ? )だって来るものを頂かせて頂かなければいけないとこう思う。
 先程私は降りる時に家内に話した事でした。例えば私がお芝居が好きですが、さあお芝居に参りますもう以前はそのもう歌舞伎があると云うたら、そのもう久留米までじゃろうが福岡までじゃろうが行きよりました。ぎりぎりでも行くともうそれこそ足が地に付かん様にして急いだものである。中では拍子木の音がカチカチといっておる、義太夫の音がドンドンとこう中から聞こえて来るともう、体がもう浮きたってから、もう走り出さずにはおられなかったのです本当は。
 もうそれこそ、もう、真一文字に小屋目指してから走り込んだものです。所がです私はやっぱ信心もそうだったんです。もう最後の頃は私は福岡からあの電車を利用いたしましたから、大城から歩いて参りましたけれども、以前はこの、(?)のバスで善導寺から降ります。
 そしたらあのバスの停留所から、もう、あそこまで小走りでした。草野から山口さんと言うおじいさんがお参りになっておられましたが、なにかでもうお祭を頂かずに帰っておるのを途中で会うた、私が走って来よるもんだから、銀行辺りでした、大坪さん早く行かなければ神様がもうこげんして待って御座る。ほんにそんな気がしよったんです私。もうはよ私が行かなければ、お祭が始まらん。私が行かなければ神様が喜びなさらん。もうそんな気持ちだったです。ね、
 ですから、お互いの信心がです本当に、好きな芝居でも見に行った時の様にです、私共の信心が段々信心の目を触れて見えましたら、さあお月次祭というてお参りをさせて頂くさあ、お祭じゃけん参りゃじゃこてと言う様なものでは無くてです、そういう浮き立つ様なもの、そんな事を私話しておりましたら、思わせて頂いてから、ただ今ここに座った途端頂きますのが、菊正宗の超、という超特級と書いてある超の字をクローズアップして大きく頂くんです。
 超という字を皆さん書いて御覧なさい。どんな字が書いてありますか、走るという字に召しと書いてある。召しよせるの召しですでしょうが。神様が召しておられる神様が待ってお出でになられる。神様がおいでおいでし御座る様な気がする。だから走り出さなければおられないと云う様な、信心にならせて頂いて初めてです超の付く様なおかげが受けられるというのですから皆さんどうでしょうか。はぁ私こそ超の付くおかげが頂かれるだろうと思われる人はまあそれでよい。
 一級酒程度。二級酒程度。どぶ酒程度。例えば、お月次祭のお礼参拝がです、本当にそう云う様な心の状態、恐らく今日は取り入れの真っ最中だから、近所の農家の方達のお参りは少なかろう。お広前ががらんとしておってっちゃお祭を仕えにくあんなさろうから、さあ今日日頃参らんあんた達も、今日はもうがっさり家中でお参りさせて頂こうやと云った様な雰囲気なんです。
 そう云う様なものが大事なんです。どうでしょうかそんな事を考えられた方があるでしょうか。今日は恐らく取り入れの真っ最中。恐らくまあ土居北野辺りは参って来たっちゃ遅かろう。又お参りも無かろうお広前ががらんと空くだろうから、今日はあんたも参らんねあんたも参らんねと言うて兎に角、誘いおうて参って来る様な私は気持ちが皆さんは是から先でも起こっただろうか。
 私は唯今、お祭りを仕えさせて頂いてから、私は皆、商売の方にも申します。私のお届け帳を見て下されば分かる。雨が降るから、お天気が良いから、農繁期だから、農閑期だからと言うお届け帳は不動はない。殆ど同じなんだ。どんなに農繁期の忙しい時でも、お広前はやっぱりこういう小さいお広前でも、これが一杯にならなければうそなんだ。にも係らず例えばこうやってがらっとしておると言う事はです、これは私の信心がこれは農繁期の所孝じゃない。
 皆さんが誘い会わなかったせいじゃない。これは私の信心がどこにか、間違いがあったのだなあとこう思うて神様にお詫びさせて頂きよりましたら、( ? )もう暫くいたしますと、ここへあの、メリヤスんのジュバンを着ますと、ここがあのゴムになってますですね、きゅっとしまるやつ腕が。ここん所を頂くんです。ね。
 どう云う事と思いますか、それによって引き締まれば良いのである。そこから風が入らん様になればいいのである。だからお参りが少なかったその事はおかげ落としたのである。だからその、詫びなければいけんのである、はぁあそこが神様の機関に適わなかったであろうという所に気が付かれれば良いのである。けれどもそれでは、それだけではおかげではない。
 それを気付かせて頂いて改まらせて貰うて、この前の月次祭にはお参りが少なかったが、それをとり戻させて頂く為にこういう、おかげを頂かせて貰うたというのであったらおかげなのだ。今日は言わばこう引き締められた様なものと、私は感じた。
 そこで皆さん、どうぞ一つ皆さん私はね、神様も願うておられる様にですどうぞ、だから私は神様の代弁者。お取次ぎをさせて頂くのですから。どうぞ皆さん折角椛目にご縁を頂かれるので御座いますからどうぞ、何かれの上にです健康の上にも、経済の上にも、人間の上にも、達者の上にも、一切の上に成程と人が合点の行く様な、超の付く様なおかげを頂かせて頂く為にです、信心が自分の心の中に何時も躍動して。
 お広前に参拝をさせて頂くというたらです、本当に神様がおいでおいでし御座るのに対してこちらが、それに応えて走ってお参りをしておる様な気持ちでです、信心の稽古がなされなければならんと私は思う。ただ今、降りて参ります時に、チョットあのカレンダーが掛っております。今月のカレンダーがこう掛けてある。仙崖さんの、書いたものが書いてある。三行に書いてある。
 私は何と書いてあるかはちょっと、いっぺんに忘れましたけれども、仏教の中に観音経という経がある。お経が沢山ある何万巻という経文がある。その中の観音経、(?)経、それから久保山先生なんでしたかね金剛経ね、その、三つの中から、です、その経文の一節を三つに分けてこう、三行に書いてある。どの経文の中でも、その焦点と思う所を中心になるものは、どういうものかというとです、お金というものは、全部心の資産だと書いてあります。ね。
 そこを、教祖は私共に、その何万巻の経文というものは、ないに致しましてもです、たかが83か条ですかね、その、御教えの中にはその事だけが書いてある。此の方の道は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせんと。天地書付にです「生神金光大神 天地金乃神一心に願え、おかげはわが心にあり」と。ね。そういう心の資産なのだおかげというのは。難儀もそうなのだ。私共がどうして、難儀せんならんじゃなかろうかじゃない。
 心の資産なんだ。心が産み出しておるものなんだ。と言う事をです、何千年の昔、一つの経文とか聖書とかというものは、(?)御座いましょうがです、そう云う事がある事だけはです、仏教なら仏教の勉強をすれば分かるのだけれども、それを実際の身を持って現しておるというのはです、沢山はないでしょうが。
 お互いが生き生きとしたひれいがたっておるといやあ、唯、おかげだけを目当てにして、目指させて頂いて、言わば枯れ木も山の賑わい的な信者が増えるだけではならん。そういうおかげを通して、本気で自分自身の心の中に頂く所の和らぎ喜ぶ心。その和らぎ喜ぶ心を頂かせて頂く所の教えをです、また道をです、教えて頂く事の楽しみが喜びが。
 信心の稽古と言うたらもう本当に走り出さなければおられない様な、心の状態の所までです高められて行かなければならない。実際におかげというのは、自分の心次第であると言う事を、一つ皆さん分からなければなりません。お参りをしてお取次ぎを頂いて、おかげを頂く。それは唯、お取次ぎを頂いておかげを頂くと言うのは、金光大神様のお徳によってです。
 只神様のおかげを頂いておるだけなんだ。お取次ぎを頂いて帰ると言う事。お取次ぎを願うてお取次ぎを頂いて帰らなければ、そのお取次ぎを頂く時には神様が、ご理解をもって教えて下さる。こうあらなければいかん。こういう修行もしなければいけん。そういう心の状態ではおかげは受けられん。改まらなにゃいかん、磨かにゃいかんと言う事になって来る訳である。
 そこんところを皆さんも分かっておられる。私も分かっておると。だからもっともっと本当に分からせ貰うて、そこから一つ、特訓を受けて行こう、おかげを受けて行こうという、おかげ信心を進め方をです、椛目の場合は日に日に新に。分からなければかんで含める様に、教えて下さっておると言う事である。皆さんもそう感じられないでしょうか。
 あぁ今日の御理解も有り難い御理解だった。と言う人もあろう、何時も同じ様な事。親先生が仰っておられるのは何時も磨き改まればっかり、と言う風にして、慣れっこになってそう言う事になったらです、何時までたっても超の付く様なおかげになりません。
 皆さんは信心は本当に、頂く楽しみを頂かにゃいけませんよ。けれども中々ですね、その信心を自分のものにしようと願うてです、本気でおかげを頂くと言う事は、中々私は繰り返し繰り返し言うてその間にです、本当に自分の心に何かそれで食い付く様なもの、はぁ本当にそうだと今こそ目が覚めた様な気持ちでです、信心に本気で修行にならなければいけない。
 昨日は修行生の方達が私を囲んで、その、私の信心を色々聞きたいと云う訳。批評したいち。だから私は申しました。そうだなあ、私がおかげを頂いておらんならね、あなた方が批評してもいい。そりゃなんでも一つ評論家というものがあるから。野球に評論家があるでしょうが。お芝居に評論家があるでしょうが。信心にもやっぱり評論家がこの頃だいぶん増えて来た。
 そして、あげな信心ではいかん、こげな信心ではいかんと言う事だけは知っておるけれども、言うておるその人がんなら、踊りきるか野球をやりきるかと言うと、踊りもしきらん、野球もやりきらん。様にです、信心が詳しくなっただけでは評論家になるだけだ。それはお芝居の批評なんかでも、実にひどいです。酷なんです。滅多に誉めてやる事なんかない。
 ですからですね。もう岡目八目でですね。例えば人の足元を見とればもう、色々あげな事じゃいけん、あれでよかじゃろうかと思う様なものがあるのです。けれども、それで私がおかげを受けておるならば、私がそれで毎日有難そうにしておるならばです、あんた方が私の信心を、批評すると云う様な態度では、おかげにならんと。
 だから本当をいうなら、私のどう言う所でもです、あばたもえくぼと言う様になって来なければ、おかげを受けられんというて、、前提を置いてお話をさせて頂いた事で御座います。
 私自身がそげな思いします様にです、成程、私の和賀心の中からの粗餐である所の、まあこの程度でありますけれども、おかげを産み成させて頂いてあると云う事。それを皆さんに聞いて頂いておるので御座いますから、椛目の場合はここに一つ見本があって、こういう信心をすればこういうおかげが受けられるんですよと、百年前誰さんがこういうおかげを頂きなさったげなですばいちいうごたるものではないと言う事。椛目の場合は。私が朝晩に御祈念をさせて貰うてから、皆さんにご理解を伝えさせて頂くでも、私の信心ではありますけれども、その都度都度に神様からのお知らせを頂いてからの御理解であると言う事。
 今朝私、ご神前に出らして貰ましたら、川の流れ、ね、ゆっくり川が流れておる。それを私がちょっとやや高い所から見ておる。上の方から丁度、桃太郎さんのお婆さんがですね、洗濯に行ってから、桃を拾われた時がです、こう言う風な状態で流れて来たのではないかと思われれる様に、上からぼっかりぼっかり、大きなカボチャが流れて来る。
 カボチャち聞いただけでおかしい。あんやつはかぼちゃのごたるやっちゃねち。バカの代名詞の様に言われておりますけれどもね、ここ辺はカボチャち言いません。あの人はボウブラのごたる奴ねち言いますね。その、ボウブラが上からぼっかりぼっかりその流れて来るんですよ。それを私上から眺めておると云う様な情景なんです。
 そしたら、私そのカボチャを流れて来るのを見てから、思うのです。丁度、あれはまるきり菊の花のごたるなあと私は思いよる。丁度菊の花の様にして私はカボチャを見よる。あれがひっくりかえって流れて来よるなら、本当に菊の花の様な感じがあるでしょう。
 もし皆さんがそう言う御心眼を頂かれたらどう言う風に感じられるでしょうか。どう言う風に頂かれるでしょう、私はもうすぐに直感した。水はお恵みである。お恵みの水が言わば上から下へ、こう私共の方へ銘々の所へこう、流れて来ておるのであります。
 様々なお恵みがある。ね、病気もお恵み、ね、痛い痒いが一切がお恵み。そのお恵みの水がこう流れて来ておる。それをです私共がです本気で、大きな心で馬鹿と、いなうら阿呆で受けさせて頂く。カボチャで受けさせて頂こうというのである。そこからでしか言わば、私が感じた菊の花という自分の心の中に菊の花のそれにも似た様な、菊の喜びという物が心に頂けれるのだと。
 もう、椛目の信心はここに極まっておるので御座います。ここんところに焦点をおいて、本気で信心の稽古をさせて貰うて、受けられんならそれを本気で修行させて頂いて、流れて来たカボチャをです、こげなものは要らんというて向こうに押しやる様な事をせずに、それを合掌して受けて行くと言う信心。中々受けられない事があるんですよね。
 数日前、ある方が毎朝参って見えられます。参って参られました。丁度、十三日会のあくる日ですから十四日でした。「もう先生十三日会の日は大変なおかげを頂いて、私ちょっと発表なんかもさせて貰うて、もう有り難いいっぱいで帰らさせて頂いた。所が帰ったら家内がその目を泣き張らしておる。「なにごつかあったとか」ち聞いた所が「それがお父さん聞いて下さいもう情けないもなにも」ち言うてから「こげな情けない事は無い」というて又泣かれる。「泣いとっちゃっちゃ分からんけんどうしたか」ち聞くと、今日は誰々さんの家に行商しておられます。
 そこに行商に行かれた。「そりゃああんたが来たから」というて、買うても貰ったのですけれども、後が悪かった。夕方あそこの奥様みえた。そしてあの○○さん、機嫌が悪うしなさんな。
 「こんな事言うてあんたが気分悪くしたらいかんですよち。ばってん貴方が家にきた時に、私が、横に買い物篭があったでしょうが」ち言われるそうです。そこに、自分はいっちょん気が付かなかったといわれる。あの買い物篭の中に、財布を入れとると。お金は千五百円ばっかりばってんです、その無くなっておると云う訳です。
 「それからこっちあなたの他誰も他んもんは誰も来とらん」と。もうそげな言い方があるもんですか。私もお取次ぎをさせて頂きながらです、もうほんなこて私も腹が立つ様な思いが致しました。気分を悪うしなさんなち言うとってから。財布が無くなったち。「あなたの前にあったでしょうもん」ち。「あなたのこっち誰も来とらん」ち。「いうなら貴方が持っていっとらせんでしょうか」ち、言わんばっかりなんです。「それは私は買い物篭があったのも知らじゃった」ち。
 「ならあなたが知りなさらんならよかばってん」ちいうて帰られた。さあその後が人間と言う者はもう落ち目になって参りますとです、それが何でもないとき、自分ががりがりやっておる時はです、なんでもないので御座いますけれども、いよいよ自分が難儀をしておる足元を見られてです、成程落ちぶれて袖に涙のかかる時ですから、それがいよいよ悲しい事になって来たのです。
事もあろうにです、たった千五百円くらいな( ? )いうなら金を私が取るとばし思うて御座るじゃろうか、と思うて見たら腹が立って堪らんかった。
さあ旦那さん有難い有難いで帰らせて頂いたけれども、聞きよる旦那さんの顔色が変わる位にあった。二人の者がずうっと一晩中眠れなかった。あっち向きこっち向きしてまあだ寝とらん「どげん考えたっちゃ眠られん」というて夜が明けた。
 もう本当に、それこそ掴み掛ってでも行きたいごたる。「いかにも、そんならその私が取ったのですか」と言わんばっかりの事を言われるとこういう。「先生、そう云う様な場合です信心させて頂く者はやっぱり我慢して辛抱しとかなんですか」ち、あくる朝お伺いがあったんです。
 私もその心の中で思うた。今言う様に。それはその気持ち悪うしなさんなち言うた所でです、気持ち悪せん訳には、気持ち悪い所ではなか、腹を立てん訳にはいかんね。
 そしたらですね、私神様からお知らせを頂いたのにですね、この全てという字のこちら総と言う字の公の下に心と言う字がある。それを頂いた。これは大きな心で行けばいいんだなあと。もう例えばそう云う事言うて来てもです自分は取っとらんのですから、いわゆるもうそれが心の中で泳がせれる位な自分にならにゃあいかんなあと。
 教組の神様の御教えの中にもです、「貰うて歩かねば乞食じゃない。人の物をとらなければ泥棒じゃない。神が顔を洗うてやる」とこう仰る。所がですね、所がその日頃それを頂いておっても、そういう事に直面致しますと、もう心が乱れてしもうてです、いわゆる晩でも眠られん位に、はがゆい腹の立つ事に成って来るのです。ですから、そう云う様な場合私の心はこの程度である事を先ず知らなければいかん。大きなおかげを願い、大きなおかげを頂きたい。
 自分の心はその位の事をこれで泳がせれない所の、小さい心であると言う事をまず悟らせて貰うて、おかげを頂かねばいかん。所がお徳に触れると云う事が有り難い。教えに触れると言う事が有り難い。信心をさせて頂く者はここがもう理屈ではない。田原さんそのご理解を頂かれたらです、私はつい横に糸偏を頂いた。総てと云う事の字になった。
 全ての事にです、信心をさせて頂く者の上に起きて来る全ての事にです、神様の関連があるのだと。神様との糸の継ながりがあるのだと。日頃大きなおかげを頂きたいと願うておのであるから、大きなおかげの受け物、大きな心、豊かな心を作らせて下さろうとする神様の働きがもう始まっておるのだと。13日会で本当に有り難いと思うて帰らせて頂いた。
 その、有り難いというのがもろくも崩れる位の有難いであったと云う事を、悟らなければいけない。「はぁ本当先生もう、それきりはもう胸がすうとしました」ち。「あの辺がです、これはもう理屈じゃない様ですね。もうどうにも夕べは眠れん事あったけれどもです、ご理解を頂かせて頂いたら、そうだった」と、もう不思議なんです。
 私、先日お道の新聞を読ませて貰よったら、ある教会の先生、もうまあ口不調法の頭の悪いドンな先生だったらしんです。ある会合に行って何時も何時もその人がやり込められてばぁっかりおる訳なんです。今日もある理不尽の事でやり込められてもう、もうああも言いたかった、こうも言いたかったけれども、言えない。口不調法で。
 もうそれがハガユウしてハガユウして答えんから、二時間も三時間もご神前に座って、はがゆい情けない、唯、その思いで神様の前に座らせて頂いておったら、天あら声あって、その先生に神様がお知らせを下さった。「賢いものは神の用に使わん」と仰る「賢い人間、賢い者じゃ神は使えん」と仰る。それを頂かれた途端にです、もうそれこそ、理屈じゃないんです。
 自分がドンであるその事が有難かった。言い訳一つ出来ない自分がありがたかった。人から馬鹿の様に言われるそれが有難かった。という事が書いて御座いました。もう理屈じゃないです。糸偏なんです。一切が神様と継ながりがあって関連があっての、そういう恥ずかし目を受けなければならんのであり、それを私共黙って辛抱するのではない、いわゆるそれを、心の中に泳がせて頂けれるくらいな私にならせて頂くと言う事。帰って家内にそれを話した。
 「本当に、お父さんもうご理解ちゃ有り難かですの」ち。もうそれこそ、自分がすっきりしてから話しよるもんじゃけん「奥さんも本当にそうでした」と、「自分がとっとた訳ではないし、もう本当に、そこんところを神様にお願いしていけばよかですね」というて、家内も心が、なでおろす事が出来たとこう云う事。これがおかげを頂く元なの。ね。
 その方が昨日の朝参って見えられましてからですね、「先生、先日からお願いしておりましたのがおかげ頂きました」と。そのあちらの奥さんがやって見えたそうです。して、「ほんに先日はもう、あなたにご無礼な事を言うてから堪えて下さい」ち。「もう本当に腹も立ちましたろう」ち。「本当に済みませんでした」と言うてから、お詫びをされるそうです。
 「それけん出て来ましたか」と言うたら、「いや出て来ません」ち。「けれどもね、あんまり私は不思議と思うたもんだから、その、どこどこの真理教というからお稲荷さんでしょう。お稲荷さんに参ったら、願うてそのぽくぽく教えて下さると言う訳なんです。そこにそのお参りしたち。そしたらもうお稲荷さんが拝みなさったらもう、振り向いてからその人ばもう、それこそ大変な剣幕で怒られた」そうです。
 「お前は自分の不調法でなくしてからね、人に疑いを掛けておる。そんな事じゃあおかげにならん」というてからその、まあ怒られたそうです。そしてからその、「財布はどこどこの引き出しの何番目に入っておるじゃないか」というてから怒られたそうです。
 「はぁ」ちいうてからその神様が言いなさったもんじゃからもう言われた途端にです、本当に自分が何々さんがこうして、疑うておったと言う事をですその足でお詫びに来ちゃる。偉いと私は思う人を軽く見る心がおかげにならんけれども、人を軽く見て人に凝りを積ませたならばです本当に先日は済みませんでしたというて、御礼に来る位な素直さがなからにゃきゃいかんですよ。
 勿論、その何番目の引出しを開けてみたばってん、それは入っておらじゃったそうです。(笑)けれども、私今日その事をですね、その方の財布が出て来る様に私は何番目に入っておるか分からんから、出て来る事を一丁お願いしようというてから、言うた事出御座いました。
 例えばそう言う様な事でもです、それこそかんかんになって腹かいた時には自分にはそれだけ方の受け物しかまだないのだと悟らせて貰うて、どうでもいかん時には走って椛目に参って来て、一つのご理解を頂いたらこれが、撫でおろす事が出来るのであり、はぁほんにそうじゃったと思う事が出来るのである。そういう私は稽古を日々つけさせて頂くと言う事。
 今朝のご理解でいうならばです、そう云う様な事がです、言わば私の前に流れて来たのである。それを私が馬鹿と阿呆にならせて貰うて、カボチャにならせて貰うて、それを受けさせて頂く所にこう云う様な、惟がもし信心の無い昔ならば、向こうにその掴み掛ってでも行きたいごたる自分であったのにです、惟が治める事が出来る様になったと言う事は、なんと有難い事じゃろうかというその何と有難い事じゃろうかというその心がです、いわゆる一切が心の(?)なのである。
 そういう難儀な事が起こって来ると言う事も、心の技であり、またそれを、受けこなせれる様なおかげを頂かせて貰うと云う事もです、信心の教えによって心が豊かに、本当の事が分からせて貰う様になり。そういう信心が身に着いて行くと云う事が、有難い。
 今日、どげなご理解を頂くじゃろうか、と例えば云う様な、気持ちがです、お参りに出来て参りましたならばです、それこそ、走り出さなければおられないと云う事になるのじゃないでしょうか。確かに、神様はおいでおいでし御座るのだけれども。
 こちらはあっちに理屈をつけ、こっちに理屈をつけてから、そしてお参りをしないぐずぐずしておる。それではね何時まで経っても心の中に喜びの感じれれる様な、私が共好きな芝居を見に行く時にです、小屋の近所まで行ったらもう走り出さずにはおられない様な物を信心の上に頂く事が出来ない。そういう心持ちにならせて頂くと言う事を、一つ願いとしなければいけない。
 椛目の皆さんが一人一人です本当に現在の椛目のご信者さん一人一人がです超の付く様なおかげを頂いてほしいですね。もう本当に、あの一人一人の前に手を付いてから頼みたいごとあるです。そしてです、この位の助かりが出来ると云う事がです、この位のお陰になって来るのであるから、これがもっと、大きな助かりになった時にもっと、大きなおかげになって来るだろうという希望、楽しみ、勿論修行も御座いましょう。
 けれども、その修行を楽しみに、修行をさせて頂けれる様な、おかげを皆さんが頂かれたらね、どんなに有り難い事になるだろうか。そういう信心がです、椛目の、土台ともならせて貰、合楽の教会に移らせて頂く時には、そういう、御信者さん方をもって、椛目の信心の基礎とならせて貰う。それによって助かって行く信者氏子が沢山、言わばあちらのお広前が狭しと、信心の稽古に通うて見えれる様な、おかげを願わせて貰わなければいけん。
 神様の願い。私共の願い、そういう願いが一致して来なければいけない。数日前、高芝さんが昼、二度目のお参りに見えてからの事で御座いました。お茶を頂きながら、どういうもんでしょうか、椛目にご造営が始まってこの方、椛目の信者がまあ皆、殆ど不如意な人が多い。今まで、仕事が順調に行きよったが、順調にいかんごとなった。お願いすればお願いする程、右が左になって行くと云う様な、傾向にあるのですけれども、どういうものじゃろうかというてその言われる。皆さんはそう感じられる事はないでしょうか。
 けれどもそんなだけでは、あのご造営は出来ませんもんね。そうじゃもう中には、それこそ願い願い通りのおかげを頂いておられる勿論その人なりの、受けておられるからこそ、ご造営が出来ておるのですよ。右と願えば左ばっかりでは出来る筈はないじゃないですか。出来ているんです。結局私共のです、心の(?)なのである。心のせいなのである。心が間違うておるのである。
 極端に言えば。百万の宝くじが当ります様に、五十万円はお供えしますけん。そう云う様な事ではもう全然ダメですね。ある教会のお婆さん、もう昔から心安い片でした。もう十年も前の話でした。もう「私はどうでんこうでん神様にいっちょううんとお供えをしようと思うてからですね、ずうともう、2年ばかりお願いをしてから毎月その、宝くじを買わっしゃる。
 もう一年半ばかりなったけれども、惟こそいっぺんでん当らん当ろうともせんそれで先日先生にちっともやもやしたもんじゃけんで、先生あなたお願いしてくれなさるの」ち言うてからいうたら、「お願いしよるばの」ちいうちゃった「あんたん心掛けが悪か間違うとりゃせんの」ち「当ってから半分は神様にお供えしてから、半分は自分ががばっと取ろうち思いよりゃせんね」ち。
 「そりゃ先生思いますくさあなた、それでなかりゃなあなた、お願いする事なかじゃなかですか」ち言われる(笑)。「なぁ大坪さんそうじゃろうもん」ち言いなさる。ほんなこつと思いますたいね、そりゃ神様にもお供えをするばってん自分もようなからなけん、お願いしよる。
 だから「そげな事じゃ○○さんおかげにはならんばの」ち先生がいいなさった。「そげな事なら始めからそげん言うて下されば私はお願いもせん所に」ちいうてから腹かきよんなさる。(笑)
 「それで先生あなたが当たるごつお願いばして下さい」と言われた事があるのですけれどもね。そんなものと似たりよったりのものはないでしょうか。極端に言うたら。先生が言わっしゃった。「あんたがみんなお供えするけんが、当ろうばってん、あんたがそげなこつ考えておる間はおかげにはならん」と仰った。それはね、例えば、椛目の人達はです、当たれば皆お供えすると云う様な気持ちは恐らく皆んなあるでしょう。けれどもそれだけではおかげにはならんて。
 そこんところに私は信心が本当のものにならなければ、そこが分からんのじゃないだろうか。教えたからといって分る事じゃない。そげな事よりかです、本当に日々の中から、本気で、私はおかげを頂いて行かなければならない。神様が思い立たれた。神様が先頭に立って御座る。神様のご造営ね、そういう例えばご造営だからというて、私共が只その後から付いて行けれるだけの信心にならなければ、何時まで経ってもおかげをなれん、おかげを受けられんと私は思う。
 こういう心掛けではおかげになるまいと云う事を先ず一つ、そこん所を分からせて貰うてです、本気でお供えしたいと思うておる事は間違いない。半分じゃないみなお供えしたいと思うておる、そんな事だけでもいかん。そこにご造営だけがおかげではない、あのご造営を通してです、信心のご造営こそ、本当いうたら神様の願いであると言う事を私共は分からせて貰うて、果たしてですあれが見事に出来るだけでいけんて。
 同時に椛目全体の者が今日私が申します様な意味合いにおいて、信心の造営が出来て参りまして、お恵みの水が流れて来る。そこに言わばカボチャが流れておる。丁度それを菊の花の様に見立てさせて貰うてです、自分の心の中にそういう信心を頂かせて貰うて、言わばどげんなりましょうか、水と菊ですから菊水と云う事になりゃしませんか。
 菊水のそれを頂かせて貰える様なおかげを頂かなければならない。超の付く様なおかげを頂かなければならない。菊水といえば、菊水といえば、、楠木正成の紋所。いわゆる、楠木正成である。信心もですどうでも、楠の木太りのおかげを頂けと言われております。外の木はあんなに太らん、けれども楠の木だけは何ぼでも大きくなる。いわゆる。
 楠の木太りのおかげを頂く為にです、正しい正しく茂って行くおかげ。正成。そういうおかげ。それは真の信心をもってしなければ頂けない。真の信心を持ってしなければおかげは受けられない。その、基礎土台が大事なんだ。その、真の信心とは、楠の木太りのおかげを頂けれる様な信心とは、神様が私共に求め給う所の信心を修行を、本気で豊かな大きな心で頂き抜かせて頂くと言う事が、もう、絶対間違いのない真の信心だと云う事。 そういう信心を本気で身に付けさせて頂こう、そこから願いがかけられる。その願いがまた神様の願いと私共の願いとね一つになる願い。そういう私はおかげを頂いて行かなければいけない。
 先日、長男が代わります時に私に申します。何か神様からヒントを頂いたかなんかでしょう。「大体、親先生慎みと言う事はどう言う事でしょうか」と。「そうな、慎みとは慎む事たい」ち。なら慎み深い方がありますよね。もう、笑いいっちょでもここに手をあてて笑う人があるでしょう(笑)。慎み。そりゃあもうお行儀のよい、それこそ、そして久保山先生が言いなさる。
 「お前ばっかりは慎みなか笑い、そげない笑い方をしてから」ち、もうギャ-ギャーいうごとして笑いなさります。ありゃ慎みがない。神様からああじゃない。ああ言うのがよか。天真爛漫。ね、神様がご覧になる所の慎みと言うのはそういうものではないと。
 学校の先生やら教育家やらがですね、あの、温泉ホテルに行くと一番その、乱痴気騒ぎをするのはそう云うてらいだそうです。日頃は慎み慎みと宗教家だからと。人からその見られる、学校の先生だからと思うてから慎んどる。だからその、そういう慎みじゃない。その一遍に爆発してしまう様なじゃない。心が慎んでおらなければ駄目だと。
 そしたら、私神様からお知らせを頂くのにですね、鎧兜を身に付けている所を頂いた。ご理解にです例えば剣道の試合をする人が防具を付けます。今から剣道に望むと云う様なです、今から、試合に臨むと云う様なあの気持ちが          
 (途中切れ)